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私の故郷と生い立ち
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私の故郷と生い立ち

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私の故郷(紀州・湯浅町)と、生立ち    3班 大谷直吉

 私が故郷を回顧する時、すぐに童謡「みかんの花咲く丘」を歌います。
「みかんの花がさいている 思い出の道 丘のみち  
 はるかに見える青い海 お船が遠くかすんでる」
 湯浅町は、みかんの丘に囲まれ、紀伊水道の海に臨んでいる町です。海から山に向かって、漁業、商店、農家とすみ分けられています。
 熊野古道が通る古い町です。熊野古道は、京都から淀川を船で下り、大阪で上陸します。そこから徒歩で長い道のりを歩きました。紀州は山が海に迫り、通行困難な所があるので、海岸を避けて、峠越えの多い道です。その途上に「王子」という場所が99か所あり、参詣者の休憩所、遥拜所など、目的には諸説あるようですが、99か所は今も地元では、一角を囲んで碑を建てているようです。私の町にも「久米埼王子跡」と彫った石碑を建て、保存されている場所があります。
 私の実家は父で3代続いた米屋でした。100坪の敷地の一角に精米と呼ばれていた建物があり、精米機械があり、父が操作していました。音が大きく、昼ご飯ですよと大声で呼びました。厚い壁の蔵があり、米俵が積まれていました。店では、米のほか、豆類、酒、などを売っていたようです。
何時も猫を飼っていました。米蔵ではネズミが敵です。その敵を退治してくれるのが猫です。私は物心がつくころから、猫が大好きになりました。ある時、3匹の子猫が生まれました。その中の1匹が大好きになり「なお」と名付けていました。幼稚園から帰ると、その「なお」が人にもらわれて、ゐなくなっていました。私は泣きました。母と祖母が心配して、しきりに理由を尋ねました。私は答えずに、泣き続けるだけでした。母が菓子を買ってきて泣きやめてと言い聞かせました。それでも泣いていました。
 また小学生になった頃、米は統制で家での営業ができなくなっていました。その頃、猫は必要が無くなり、私に猫を捨ててくるように命じました。猫を袋に入れ見えなくして、自転車で、山田川を渡り、栖原坂を越えて捨てるように命じました。私は坂を越えた辺りは田畑ばかりで猫は死んでしまうと思いました。川は、港に拡充したすぐ上流で広く深かったです。家もありましたので誰か飼ってくれると思いました。そこで猫を袋から出し捨てました。猫は一散に駆け去りました。それから数日後、猫が帰ってきました。母と祖母は、あの坂と川を渡ってきたと感心し、それからその猫を飼い続けました。
 中学校へ入学したのは、昭和18年、戦時下の統制で、家での商売はできなくなり、海運業に転じていました。その船は徴用さら、南方へ向かい沈められました。両親には苦労が多かったようですが、しかし生き続けてくれ、兄妹3人を育ててくれました。