神奈川県鎌倉市にある大平山丸山町内会のホームページです



歴史記録
《時代をおって紐解く》

わが街 大平山丸山地区はこんなところ

 

各時代をクリックで詳細をご覧になれます。

1.縄文時代 中期(約5,000年前)居住址発掘 「縄文時代竪穴住居址」寺分藤塚遺跡
2.弥生時代から平安時代につづく古代集落 宝積寺・天神山下城遺跡
3.古墳時代 後期(7世紀)横穴式古墳8基発掘「古墳時代の横穴群」寺分藤塚遺跡
4.平安時代 後期(延長年間923-931-永久4年1116)柏尾川氾濫原の開発と御霊神社
5.平安時代から鎌倉時代へ 大慶寺旧境内遺跡の調査 鎌倉考古学研究所理事 齋木秀雄
6.鎌倉時代中期 蒙古襲来前後 大慶寺
7.鎌倉時代から南北朝時代へ 山崎宝積寺と旧本尊



1. 縄文時代 中期(約5,000年前)住居址発掘

「縄文時代の竪穴住居址」寺分富士塚遺跡

 縄文時代の遺跡は柏尾川流域を望む台地上に多く分布し、主に中期から後期にかけての集落跡が発見されました。なかでも寺分富士塚遺跡は中心的な集落遺跡でしたが、昭和40年代の宅地開発によって調査されることもなく消滅してしまったのです。昭和63年辛うじて残った一角の調査で埋甕炉を持つ縄文中期の住居跡を3軒発見し、大集落の姿をかいまみることができました。
(鎌倉の埋蔵文化財1、平成8年刊より 鎌倉市教育委員会所蔵)

 縄文時代の中期とは、今から5,000年ほど昔のこと、温暖化により「縄文の海進」と呼ぶ海面上昇が3,000年かけて40m以上にも達したあとの時代です。寺分富士塚も海に近い生活であったかも知れません。
 暮しやすい環境は、1万3~4千年間つづいた縄文時代の中で最も多くの住居址が発見され、国宝の「縄文のビーナス」(長野県棚畑遺跡出土)が作られた時代でした。


※「縄文のビーナス」
縄文造形の一つの頂点。全く無駄のないデザイン。半歩踏み出した表現も見事。
(平成24年度かながわの遺跡展・巡回展 勝坂縄文展より)
※「鎌倉歴史文化交流館」に展示
写真右側の埋甕炉の土器が、縄文時代の遺物として展示されています。勝坂式の見事な土器です。
(文責 天野)




2. 弥生時代から平安時代につづく古代集落 宝積寺・天神山下城遺跡

   ここでは弥生時代から平安時代の住居跡、中世の墓域などがみつかりました。当該地は南東に低くなる斜面地で日当たりもよく、住居に適していたようです。また「瓦塔」と呼ばれる平安時代の土器で作られた塔(五重塔火)の破片がみつかりました。神奈川県内でも出土例は非常に少なく、鎌倉市内では初めての出土です。(鎌倉の埋蔵文化財20、平成29年刊より)



 モノレール「湘南町屋駅」に向かう坂道の途中、山崎へ下る「江の島みち」の左手にこの遺跡がありました。老人ホーム建設に伴い約5,000m2が発掘調査され、77軒の居住址が検出されました。古墳時代の竪穴住居址が66軒と多数を占めますが、弥生時代から平安時代にいたる長い期間の集落であったといえます。古代瓦塔の出土や基壇を伴った掘立柱建物址によって古代寺院の存在が推測できる資料が確認されています。

(文責 天野 参考 第26回鎌倉市遺跡調査・研究発表会発表要旨)




3. 古墳時代 後期(7世紀)横穴式古墳8基発掘

「古墳時代の横穴群」寺分藤塚遺跡  「横穴墓は古墳の横穴式石室における埋葬様式の系譜をひく墓制で、群集墳の一種として盛んに造られたものです。 寺分藤塚遺跡は、マンション建設にともなう造成工事のため平成8年度に発掘、調査され、8基の横穴墓が発見されました。出土遺物についてみると鉄製品、玉類のほか須恵器、土師器など、埋葬時に行われた墓前祭祀に使用された土器類が出土しており、その年代観から7世紀中葉頃と推定されます。」  
                        寺分藤塚遺跡横穴墓群全景↑

  
    1号墓正面           2号墓の構築状況




6号墓の羨門部で発見された門柱状柱穴 





 
 1号墓出土の土師器   1号墓出土の鉄製品・玉類  1号墓出土の須恵器   6号墓出土の須恵器

(鎌倉の埋蔵文化財2、平成10年刊より 鎌倉市教育委員会所蔵) 

 7世紀は「飛鳥時代」と呼んでもいいでしょう。推古天皇、聖徳太子の御代からはじまり、持統天皇文武天皇までの百年間、飛鳥の地に宮居が次々と建てられ、乙巳(いつし)の変(大化の改新)、壬申の乱を経て律令制の古代国家が建設されていく時代でした。
(文責 天野)





4. 平安時代 後期(延長年間923-931-永久4年1116)
 柏尾川氾濫原の開発と御霊神社

「仮説であるが、鎌倉権五郎景正を鎌倉党の祖とすることは、後三年の合戦(1085-1087)での武勇を持って語られるが、村岡地区で成功した開発技術の伝授によると考えられないかということである。すなわち景正は何らかの技術・方法を持って村岡地域で低湿地(深田)の開発に成功した。鎌倉を中心とした地域の武士達にその技術が伝播したので、景正を御霊神として祀り、又共通の祖と仰いだのではないか。」
(「大場御厨の景観」 藤沢市教育委員会1997刊)

昭和16年、藤沢市に合併するまでの村岡地区は、鎌倉郡に属し、昔は、柏尾川の氾濫原を深沢地区と共に取囲む隣村でした。平良文(村岡五郎)が延長年間(923-931)鎮守府将軍として村岡に荘園を開き、宮前に崇道天皇(早良親王)を御祭神とする御霊神社を勧請、戦勝祈願の社とされました。(天慶3年940)

鎌倉権五郎景正は、永久4年(1116)大場御厨を伊勢神宮に寄進するまでになりました。景正は御霊神社の祭神に祀られ、かっての氾濫原をかこむ梶原、川名の地に鎮座し、その後13社を数えるまでに拡がりました。
      (文責天野 参考「藤沢史蹟めぐり」藤沢文庫刊行会 「宮前御霊神社由緒書」)





5. 平安時代から鎌倉時代へ 

大慶寺旧境内遺跡の調査 鎌倉考古学研究所理事 齋木秀雄

「調査地は鎌倉市寺分1丁目で、大慶寺山門前に山門を背に立つと、正面右手の小さな枝谷内に位置している。
(中略)
調査の結果、およそ4枚の生活面・遺構検出面とそれらの面に伴う遺構が検出された。(中略)
検出遺構や出土遺物の整理作業は現在進行中であるが気付いた問題点について考えてみたい。
 まづ本地点では、3面(現地表下120㎝、13世紀前半)から中世のかわらけ皿が出土し、
4面(現地表下130㎝~140㎝、10世紀中頃までの生活痕跡)から古代の緑釉陶器、灰釉陶器が出土している特異な
点である。この事実は、平安時代後半から鎌倉時代初めにかけて、断続的ではあるが、有力な人物が居住していた
ことを示している。鎌倉の旧市街地を離れた地域で手づくねかわらけ皿がある程度まとまった量で出土することは
極めて稀である。(中略)
 本地点の西方を流れる柏尾川には古舘橋が架かり、その西方には平安時代の豪族 村岡氏が居住したと伝わる遺跡
もある。梶原氏はこの村岡氏から派生しており、寺分地域と村岡氏そして鎌倉幕府との関係を再検討する必要が
ある。(後略)」
(「かまくら考古第22号」平成26年9月刊 編集 特定非営利活動法人 鎌倉考古学研究所 
なお、調査は有限会社 鎌倉遺跡調査会によって平成26年4月から同年6月にかけて実施された。)

 「和名類聚抄」(承平年間937年頃 源順著)に鎌倉郡の郷名として見える梶原郷、その歴史の中で「吾妻鏡」が
伝える治承4年(1180)石橋山の合戦で頼朝を救った梶原景時。「平家物語」が語る一の谷の戦いで500余騎を
従えた景時の「鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや」との大音声。「愚管抄」の著者慈円
(関白九条兼実の弟)をして、「鎌倉ノ本躰ノ武士」と評さしめた景時の生まれ育った館跡の可能性があると
したら、その期待はおおきなものがあります。
 
(文責 天野 参考「相模武士第1巻」湯山学著 2010刊)




6. 鎌倉時代中期 蒙古襲来前後 
   大慶寺

 「臨済宗 円覚寺派で、霊照(松)山 大慶寺という。開山は宋の名僧 大休正念である。
 (写真右 大休正念座像 ー北条時宗とその時代展 目録よりー)
 大慶寺が栄えた頃には、本堂、薬師堂、地蔵堂、鐘つき堂、山門のほか塔頭に指月軒、覚華堂、天台庵、大覚庵、方外庵の五棟があり、関東十刹の中に入っていた。

 寺領として東西二十町余、南北六町余が与えられた記録が「新編相模風土記」(天保12年 1841年)にあり、さらに「当村古は大慶廃寺の域内たりしを以て大慶寺分と言しを、上略して今の地名となりしならん」と寺分という地名の由来が書かれている。

 この寺に残っているものは少ないが、誇るべきは高僧、名僧が多くいたことである。開山の大休正念は文永6年(1269)宋より来朝後 建長寺、寿福寺を経て、円覚寺の第二世となった人である。方外庵を創建した法源禅師は、大休正念の弟子で大慶寺の住持後寿福寺の住持となった。

無象静照は鎌倉の人で、14年間宋で修業し、弘安2年(1279)ごろ大慶寺の住持となった後、浄智寺に招かれた。大川道通も大休正念の弟子で、のち円覚寺の十七世となった。円覚寺三十八世の傑翁是英も大慶寺で得度した。」
(庚申塔の里、-深沢の散歩道ー尾関勇著、平成元年刊 非売品)

 尾関勇氏は当町内会会員だった方。あとがきによれば、昭和64年1月1日で喜寿の誕生日であり5月に金婚式を迎えるのを記念して自費出版されました。当時のご住所に現在は住んでおられませんが、深沢の散歩を愛されたご様子が伝わります。
 



(文責 天野)



7. 鎌倉時代から南北朝時代へ 

 山崎宝積寺と旧本尊

 「室町時代に廃寺になった山崎宝積寺は、宝積寺谷という谷戸にあった。
現在はモノレールの直下にあり、道路で分断されているが、山に囲まれた地形が確認できる。
山崎宝積寺の伽藍の境界を示す岩壁にはやぐらが築かれ、岩壁にそって水路が巡り、五輪塔など中世の遺物も確認できる。
 宝積寺跡から近い円覚寺如意庵の末寺である昌清院には、山崎宝積寺の本尊が移座している。
 山崎宝積寺は夢窓疎石が京都山崎の宝積寺(宝寺)になぞらえて創建したとの伝えがある。京都宝積寺は、聖武天皇の発願により行基によって建てられた寺院で十一面観音を本尊とする。山崎宝積寺の本尊が十一面観音であるのはそのためだろう。」(写真右、十一面観音菩薩立像)
 
 (神奈川県立金沢文庫、津久井光明寺特別展ー知られざる夢窓疎石ゆかりの禅院2つの宝積寺を訪ねてー2015.2.19~4.19開催 旧本尊 初公開の展示解説より)

 夢窓疎石(建寺元年1275-正平6年1351)は伊勢の人。のちに国師号を七代の天皇から賜り「七朝帝師」といわれました。
 初め天台を学びましたが20才のとき禅宗に帰して、鎌倉に下り円覚寺の開山仏光国師の高弟高峰顕日の法を嗣ぎました。

 正中2年(1325)後醍醐天皇によって南禅寺の住持として招かれ、元徳元年(1329)には北条高時の懇請によって円覚寺十五世として入山しました。その間、鎌倉浄智寺に住して瑞泉寺も開きました。更に元徳2年(1330)には甲斐に恵林寺を開創しています。宝積寺の創建もその頃ではなかったでしょうか。
 北条氏滅亡後も足利尊氏、直義兄弟の帰依を受け、歴応2年(1339)後醍醐天皇菩提のための寺、天龍寺を開き、同じ年行基開山の西芳寺(苔寺)を中興いたしました。
   
(文責天野 参考 熊倉功夫編 「夢窓疎石」2012刊)



今後もシリーズでひも解いて行きたいと思っています。乞うご期待!


●そして現在

すべて戸建ての住宅地約1,000世帯(近くに関東十刹大慶寺)
鎌倉中央公園(約23.7 ヘクタール)正面入口、寺分口に隣接、
小型バス「ポニー」が中央公園ー鎌倉駅西口、桔梗山ー大船駅へ、
モノレール 江の島ー大船間の深沢駅又は湘南町屋駅が最寄
錢洗弁天、源氏山、台峰緑地、北鎌倉円覚寺、建長寺、東慶寺、鎌倉大仏への散歩道